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[大分の偉人] 大友宗麟について

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年表より大友宗麟を知る:

大分には多くの歴史上の偉人がいますが、その中でも偉い武将さんのイメージが強い大友宗麟さんについて調べてみました。

享禄3年(1530年)1月に大友氏第20代当主の大友義鑑(よしあき)の嫡男として豊後の府内で生まれました。

まず始めに挙げられることは、後継問題で父・義鑑と異母弟の塩市丸を殺害した「二階崩れの変」が有名です。その後、宗麟の後継に反対した勢力も全員粛清されました。

天文20年(1551年)、周防の陶晴賢(すえはるたか)から協力を要請され大内義隆を工作により自害に追い込みます。晴賢は、自らの弟・晴英を大内義長と名乗らせて大内氏を継がせました。そして貿易港の博多を配下に置き経済的な利益を手に入れました。

天文23年(1554年)に肥後の菊池氏を滅ぼして勢力圏を拡大。同年、室町幕府第13代将軍・足利義輝に献上品として鉄砲などを納め、大友氏の家格を向上させます。そこで室町幕府が認めた正統な支配権を示すこととなりました。

弘治3年(1557年)に毛利元就が大内氏を滅ぼし北九州に侵攻してくる。毛利と通じていた筑前の秋月文種を討ち、北部九州における支配を継続します。

永禄5年(1562年)に門司城の戦いで毛利元就に敗れて以後は徐々に劣勢となります。

元亀元年(1570年)に今山の戦い龍造寺隆信に大敗。筑後や肥前を守ることが困難になっていきました。

天正4年(1576年)に大友家の家督を長男の義統(よしむね)に譲るが、自身の権勢も維持したままの言わば二元政治状態を敷くことになります。

天正5年(1577年)に薩摩の島津氏が日向へ侵攻してきたことを受け、これを迎え討つため出陣します。

天正6年(1578年)に耳川の戦いで大敗を喫し、多くの有力な家臣を失う。この結果、大友氏の領内の各地で国人の離反の動きが加速し、大友氏の領土は減少の一途をたどります。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津家久に討たれた際には、一旦は立花道雪が筑後の大半を奪回する。しかし道雪が病死すると、これを見た島津がすかさず北上する。高橋紹運や立花宗茂の力で島津の侵攻を遅らせはしたものの、もはや大友氏のみの力で島津を撃退することは出来なくなります。

天正14年(1586年)大阪城で豊臣秀吉に臣従し支援を要請しました。

天正14年(1586年)12月になると島津が戸次川の戦いで豊臣の先発隊を壊滅させて、大友氏の本拠地・豊後府内にまで攻め込まれる。宗麟はこの時、臼杵城に籠城し「国崩し」と呼ばれた大砲を用いてなんとか城を守りました。

天正15年(1587年)豊臣の総勢10万もの兵が九州に到着し、これを察知した島津が撤退、ひいては秀吉の軍門に下ることで九州は平定されました。宗麟はその最中に病いに倒れ、島津の降伏直前に豊後の津久見で病死したとされています。

所感:

ざっとですが大友宗麟の成し遂げてきたことを見てまいりました。その他にもキリシタン大名としてポルトガルとの貿易や人的交流、府内に病院や布教施設を積極的に作ったとか。一方で戦争で奪い取った領地の住民を奴隷として売ったりとか悪いうわさも耳にします。この件に関しては当時の豊臣秀吉が激怒したという記録が残っているので、おそらく事実でしょう。その後のキリスト教弾圧を考えれば頷けます。

まとめ:宗麟は自らが当主になるべく父と異母弟を殺害、裏工作を使って領地を拡大、戦況がまずくなると太閤秀吉に泣きつく。宗麟の死後、子孫はかろうじて領地を守ることができる。ポルトガルとの交易には戦勝地の住民を奴隷として提供、その他にキリスト教以外の宗教弾圧の記録もあります。

私自身あまり勉強してこなかったので、いままでは宗麟さんは病院を建設して、キリスト教に理解のある偉い人だったんだな、って良いイメージを持ってました。今回調べていくうちにイメージは変わりましたね。宗麟さんの晩年は全くダメですが、因果応報というべきか当然の報いであり、病死で済んだことに感謝するべき?が個人的な感想です。

まあ、人の評価はそれぞれってことで、とりあえずメディアには悪者扱いの日本第一党ですが、逆にメディアが完全に無視することで皆様に良い印象を持っていただいているようです。

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