埼玉

過去に多文化共生が成功した例としての高麗郷

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高麗郷の成り立ち:

今回は多文化共生が成功した例として、埼玉県日高市の高麗郷を紹介します。

高麗郷(こまごう)の歴史は今からおよそ1300年前の平安時代のころからである。当時は高句麗が滅亡して、そのときに高句麗から日本に使者として来ていた玄武若光という人が帰る機会を失って難民となり、その後に王姓を与えられ高麗郡の設置となった由来があります。

6世紀から7世紀にかけて、多くの渡来人がいた日本では当時の大和朝廷の命により渡来人約1800人が武蔵国の高麗郡に集められることになった。駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野にいた渡来人はこの高麗郡に集まったようです。

高句麗人の玄武若光は元々は相模国にいたようだが移住して高麗王若光となって高麗郡の指導者として暮らしていたようです。

武士の時代の高麗郷:

平安時代末から鎌倉時代になると武士の時代になり、高麗を姓とする3つの武士集団が登場します。古代の渡来人若光を祖とする「渡来系高麗氏」、武蔵七党の丹党から出た「丹党高麗氏(たんとうこまし)」、桓武平氏(かんむへいし)の流れを汲む秩父氏より出た「平姓高麗氏(へいせいこまし)」です。その他に鎌倉時代の記録『吾妻鏡』に登場する女影氏(おなかげし)がいました。

室町時代のことを記した古文書「町田家文書」は南北朝時代の平姓高麗氏の動向や関東の様子も伝える貴重なものです。特に高麗経澄(こまつねずみ)は度々足利尊氏軍に従軍し戦功を上げています。

江戸時代になると徳川家康は、直轄領を支配するため大久保長安(おおくぼながやす)らを代官に任命しました。長安は八王子に陣屋(じんや)を置き、さらに、高麗・毛呂郷を管轄するため高麗本郷にも陣屋を置きました。この陣屋は高麗陣屋と呼ばれました。延享(えんきょう)年間(1744から47)、この地方で徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の領地が多くなると、高麗陣屋は廃止されました。

明治時代から現在までの高麗郷:

明治時代になると廃藩置県が行われ、明治12年(1879)に高麗郡の郡役所が川越市に置かれましたが、明治29年(1896)に郡の統合により、高麗郡は入間郡に統合され高麗郡として長い間使われてきた名称は消えることとなりました。ちなみに現在の埼玉県になったのは明治9年(1876)のことです。

江戸時代の36村は明治時代になってもそのまま残っていましたが、明治21年(1888)4月に「町村制」交付された翌年4月に合併され、高麗村、高麗川村、高萩村の三村が誕生しました。

昭和4年に武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)の飯能・吾野間が開通しました。国鉄は昭和8年に八高線を開通させ、昭和15年には川越線が開通しました。交通機関の充実は近代化を進める大きな原動力となりました。

昭和30年2月に高麗村と高麗川村が合併して日高町が誕生しました。さらに翌年9月に高萩村が編入して現在の日高市の範囲が決まりました。

 昭和40年代から50年代にかけて日高、高萩、こま川、こま武蔵台の各団地が完成し、東京のベットタウン化が進みました。

 昭和62年、人口が5万人を超え、平成3年(1991)10月1日に市制施行され、日高市が誕生しました。

まとめ:

ざっと高麗郷1300年の歴史を早足で見てきましたが、高麗神社や周辺の遺跡からも高句麗文化は現在も残り続けており、日本の地方都市として完全に同化してます。

これこそが多文化共生の求めるところであり、高句麗系渡来人を武蔵国、高麗郷に集結させて地方自治区とした当時の大和朝廷は素晴らしい政策を行ったと言えます。

多文化共生を成功させるには、日本人と生活文化圏をわける。住民の数は最小限(1000人規模)にする。ということになる。

今でいえば、川口市や神奈川県川崎市は自治区として切り離し、移民受け入れを即時停止する。これが最良の政策であると言える。

日本第一党では移民政策に断固反対の立場です。

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